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2013/9/1 全米工学アカデミー「チャールズ・スターク・ドレイパー賞」を受賞された金沢工業大学名誉教授・奥村善久氏(元日本電信電話公社移動無線研究室長)が6/3にNTT技術史料館にご来館されました!

館内の受賞記念パネル前での奥村氏の写真
館内の受賞記念パネル前での奥村氏

今年2月、元日本電信電話公社移動無線研究室長で金沢工業大学名誉教授の奥村善久氏が「世界初の自動車携帯電話ネットワーク、システム及び標準規格に対する先駆的貢献」により全米工学アカデミー(米国の民間非営利研究機関)の「チャールズ・スターク・ドレイパー賞」を受賞されました。同賞は工学部門のノーベル賞とも呼ばれ、日本人の受賞は奥村氏が史上初です。

その奥村氏が6月3日に、ここNTT技術史料館にご来館されました。

ご覧いただいたNTT技術史料館はいかがでしたか。ご感想をお聞かせください。
私たちの時代のものも含めて古いものから新しいものまで、これだけの数を集めてあるのは本当にすごいことです。各時代の通信技術をつぶさに見ることができて、ためにもなりましたし、大変面白いと思いました。 それとは別に見学しながら考えたことがあります。それは、一般の方々がこの展示を見てどのように感じるだろうか、ということです。一般の方々には少々範囲が広すぎて、見るだけで精一杯でしょうね。展示物を見るだけでなく、通信の世界において歴史的にどのような原因や必要性があってどのような技術が生まれたのか、さらにどのように技術が変化していったのかを知ることは大変重要だと思います。さっき史料館の1階で見てきたものと今2階で見ているものが、通信の歴史の中でどのようにつながっているのか。これは専門家でも分かりにくいところがあります。ましてや一般の方々や学生さんには分からないでしょう。一つ一つの展示は立派なものばかりですから、それらの「つながり」までが分かると、さらに意義深いものになるのではと思いました。
人間の文化や技術は、歴史の中で大きく変わることがあります。通信技術の世界でも同じです。そして、その変化の原因や理由を知ることができれば、技術の内容と変遷についてより良く理解できるのではないでしょうか。展示を拝見しながら、そんなことを考えていました。

OB運営サポーターの伊藤氏の解説を聞く奥村氏の写真
OB運営サポーターの伊藤氏の解説を聞く奥村氏

この史料館では2011年からNTT・OBボランティアによる「OB運営サポーター制度」を立ち上げて、来館者への解説なども行っているのですが、まだまだ抜けている史料もありますし、技術の範囲が広くて説明しきれないことがあります。
これだけ広範囲な歴史を解説するのは難しいことでしょうね。だからこそ、先ほど申し上げた「つながり」が大切だと思うのです。
もうひとつ、これらの展示を誰に見せて理解してもらうのかということもポイントですね。小学生から大学生に至る学生さんのほか、老若男女を問わずあらゆる層に満足してもらえる説明はなかなかできないと思います。であるとすると、この史料館を見学に来られる方々の年齢層や職業などを想定した上で、その人達に一番アピールできるような説明の方法を考えるのが効果的だと私は思います。

あらためまして、このたびのチャールズ・スターク・ドレイパー賞の受賞、本当におめでとうございます。
受賞の対象となったご研究は、世界でも初めてという先駆的なものだそうですが、どのようなきっかけで始められたのですか。

電気通信研究所では、昭和35年頃に400 MHz帯を使用する自動車電話システムの当初の研究成果を纏めた技術資料が作られましたが、同システムは最終的には実用化に至りませんでした。一方、私が無線回線設計など研究開発の全般を担当した奄美大島の見通し外長距離通信システムが昭和36年に完成したのですが、当時、その次に実用化すべきシステムを考えたとき、やはり移動通信しかないと思いました。そして10年先の移動通信システムに必要な技術を今からやっておくべきだろうと思ったわけです。 ところがその頃、電電公社に本格的な移動通信サービスを開始する気運はまだなく、新しい周波数に対応した移動通信システムを構築するためには、新たに無線回線設計の手法を確立させる必要がありました。それで、私はまず、移動電波伝搬に関する最新の文献を調べたのですが、断片的な電波伝搬データしかなく、それらに基づいて回線設計することはとてもできない状況でした。そこで、この先誰が担当しても回線設計が容易にできるよう、十分な電波伝搬データとそれに基づく電波伝搬推定法を整えることが必要だと思ったのです。 昭和30年代から40年代当時の電気通信研究所には、マイクロ波による固定通信のための無線回線設計技術はあったのですが、移動に伴って電界強度が大きく変動する移動通信の回線設計技術については検討が進んでいませんでした。新しい移動無線方式の設計に加えて、無線回線設計に必要な新しい移動電波伝搬推定法を確立するため、走行実験データに基づく電波伝搬特性の取得が私の大きな目標となりました。

館内の受賞記念パネル前での奥村氏の写真
館内の受賞記念パネル前での奥村氏

電波伝搬の実験を進めていく過程ではさまざまな問題が発生したでしょうし、それを解決するためのご苦労も数多くあったのではないですか。
移動電波伝搬の走行実験にあたり、私は実験をやるにはどのような設備と準備が必要か、実験遂行においてどうような問題があるのかを周到に考えました。プラスの要因もマイナスの要因も考えられるものをすべて予め抜き出したのです。ところが想定外の問題は次々と起こりました。
最初の問題は電波伝搬実験に用いる電波免許の取得です。周波数を開拓するという意味合いで、大手町の関東電波監理局に450MHz、920MHz、1310MHz、1420MHz、1920MHzの5波の免許を取得するべく申請したのですが、「電電公社に電波免許を与えるとすぐに事業に使いたがるから許可できない」と言われました。一度に5波ということで担当者も驚いたのでしょう。「事業のためではなく、将来の移動通信技術の研究のために使用するものだから5波是非ほしい」と説明してもなかなか許可が下りません。その後も粘り強く電波管理局へ通い続け、結局6回目でようやく免許が取得できました。
次に、どこで走行実験をし、実験に用いるたくさんの送信設備をどこに設置するのかが問題となりました。実験場所としては、市街地を含む関東一円を対象としました。電電公社には送信設備が設置できそうな無線中継所がたくさんあるのですが、山の中や関東平野の端の方にしかありません。それで、東京タワーに送信設備を置くのが一番いいと考えたのです。さっそく百数十mと二百数十mの高さに「一週間ずつ4つのアンテナを設置させてほしい」と東京タワーにお願いしたのですが、けんもほろろに断られました。ただ、これはある程度覚悟しており、なぜなら放送中のテレビの電波に干渉が起こると大変なことになるからです。ちゃんと干渉計算をして「実験用の送信設備を併設しても大丈夫」という結果を持って再度説明に行きましたが、それでもすぐには駄目で、3回目でようやく許可してもらいました。

研究をしながら、そうした外部との交渉も進められたのですね。そうしたご苦労を経てようやく実験が始まったわけですが、実験が始まってからもいろいろな問題が発生したのでしょうか。
実験は昭和37年11月~昭和38年1月と、昭和40年3月~6月の2度にわたり実施しました。許可された電波のうちから4波を同時に用いて、移動しながら送受信する電波が地形や地物(家屋、ビル、樹木)などの影響を受けてどのように変化するのか、電波伝搬の特性を記録するのです。測定車による関東一円で延べ約3,000kmに及ぶ走行実験でした。
実験中にまず困ったのは測定器の問題です。当時の測定器は真空管式で、何の疑いもなく使っていると、朝の8時から夕方の5時まで1日中測定している間に、電圧安定装置を入れているにもかかわらず10デシベルくらい測定値が変化してしまうのです。これほど不安定な測定器はないと思いましたが、これを使わないと実験ができません。4波同時に測定するために4台の測定器を頻繁にレベル較正しながら使いました。また、実験値を同時記録するレコーダがなかったので東京中を探し回り、4つの周波数の関係性が分かるようなレコーダをようやく見つけ出したのですが、これも動作が不安定で苦労しました。
測定器以外にも問題がありました。測定車に載せる車載電源です。約1キロワットの電力供給できるものが必要だったのですが、研究所にはそのような車載電源はありません。2、3社メーカーに当たったのですが仕様を満足するものが見つからず、これも東京中を探しましたが、やはりありませんでした。結局、友人から「所望のものが米軍の払い下げで調達できる」との情報を得て、すぐに2台購入しました。当時の値段で1台26万円でした。ところが測定車に載せて走行するとすぐに故障してしまい、自動車修理工場でオーバーホールに出す始末です。そのため実際の走行実験では、購入した2台のうち1台を測定車に載せ、もう1台を修理に出しておいて、危なくなったらすぐに戻って載せ替えるといった具合で実験を進めました。しかし、実験は関東一円で行っているわけで、遠く茨城を走行しているようなときに限って電源が不調になるのです。なだめすかしながら何とか持ち応えて東京へ戻り、電源を載せ替えてまたすぐに出発するといった日々の繰り返しでした。
そして最後の難関は、膨大な測定結果をどうやって処理するかという問題です。当時は、コンピューターはもちろん電卓もありません。一つ一つの記録を読み取って数値化し、統計処理の計算をするわけです。これはもう人海戦術しかありませんでした。アルバイトの皆さんに手伝ってもらいましたが、データを間違いなく読み取る精度を確保するのに腐心しました。

今では想像できないような環境の中で、世界に認められる素晴らしい業績「奥村カーブ」を残されたわけですが、先生の行動力や探求心を支えたものは何だったのでしょうか。
私は、自分の人生に対して、自分なりにある決意をして臨みました。すなわち「自分の人生は仕事をすること」と決めたのです。そういう意味で、私は非常に忠実な公社員でしたね。そして、自分がやりたい仕事が何であるか常に考えました。そういう中で10年先を見据え、何をやるかと考えた時に、浮かんだのが移動通信だったということです。
電波免許の取得に苦労し、測定機材やデータ処理に苦労しながら進めた研究でしたが、自分で出来ることは殆ど何でもやりました。30代後半のバイタリティでしょうか。前人未踏の挑戦で怖かったけれども、信念を抱いて邁進しました。

貴重なお話ありがとうございました!ぜひまた史料館にお越しください!

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